「マグニフィカート」について(New!) 「Credo」について
二ケア信条 蝋燭と祈り

  ■ 「マグニフィカート」について  川村輝典 ■

 よくマニフィカトという言い方がなされますが、それは後代の訛りであって、中世にはマグニフィカートと発音されていました。ただ、gn の発音はフランス語などのロマンス語では「ニュ」に近くなっており、その影響でマニフィカトの方が馴染みがあるのですが、ヨーロッパの合唱団などでも「マグニフィカート」と歌っていることがありますので、そこに指揮者の教養が現れているのかもしれません。
 この名称の由来は、新約聖書のルカによる福音書1章47?55節に記されている、いわゆる「マリアの讃歌」の冒頭の句によります。「わたしの魂は(=私は全身全霊をもって)主をあがめ」という句の、一番最後の部分(原語では一番最初)の「あがめ」magnificat がそれに当たります
。  これを見ると、私たちは英語のmagnify, magnificent というような単語を、特に最近は地震の大きさを表すmagnitudeなどいう言葉を思い浮かべるのではないでしょうか。それらの語の意味からも想像できるように、マグニフィカートには「大きくする」という意味が込められており、そこから「あがめ」るというような日本語訳が生まれたのだと思います。
 さて、今回はその中からEt misericordia, Esurientes implevit bonis, Suscepit Israel の三曲が歌われます。そこで、主としてこの三つの言葉を中心に、考えてみたいと思います。
 最初のEt misericordiaは、ルカ1章50節の最初の句で、「その憐れみは・・・」という 部分ですが、日本語訳の「その」とは、49節の「力ある方」すなわち主なる神を指しており、重要な言葉なのですから、表題も Et misericordia eius というようにeiusを入れた方がよいと思います。
 マリアの讃歌という呼び名から、またアヴェ・マリアというような通俗の歌からも、この 讃歌はマリアを讃えた歌である、と勘違いしている方が多くあられるようです。しかし、 この歌は決してマリア讃歌ではありません。そのことについては、宗教改革者のマルティン・ルターがその著作「マグニフィカート」(内海季秋訳『ルター著作集』第一集 4、聖文舎 1984年,149頁以下参照)の中で、明確に主張しています。
 Et misericordia eius の部分は、このことをよく言い表しています。マリアは神を讃美 するに際して、自分が与えられている栄誉は、決して自分自身の宗教心や能力による ものではなく、ただ全く神の「憐れみ」によることなのだ、と言うのです。私たち一人一人が、まさに彼女と同じ場所に立って神の前にぬかづくことが求められています。
 次のEsurientes implevit bonis(飢えた人をよい物で満たし)の部分の「飢えた人」というのは、必ずしも現実に飢餓に苦しんでいる人のことではありません。詩編107編9節に「・・・飢えた魂を良いもので満たしてくださった」とあるように、飢えた人というのは飢えた魂のことであり、魂の飢えを経験している人のことを指しています。たとえ百万長者であろうが、社会のどん底に生活している人であろうが、全く変わりありません。自分自身の貧しさ、弱さ、傲慢さを知り、ただ生ける神にのみ自分のすべてを委ねる姿勢を持ったすべての人が、それに当たります。そのような人に対して、主はすばらしい贈り物を備えてくださるのです。
 Suscepit Israel(・・・イスラエルを受け入れて・・・)とあり、すべての民を受け入れてとは言われていません。聖書の神は結局は民族の神なのだ、と思われる方もあるかも知れません。たしかに私たちは、イスラエル人ではありません。しかし、イスラエル自体、決して神の救いに相応しい民族ではありませんでした。小さな、常に大国によって支配され続けて来た、民族であったのです。しかし、その取るに足りないイスラエルを、敢えて神が救いの民としてお選びになった、というところに 大事な意味があります。ギリシャでも、エジプトでも、ローマでもなく、イスラエルが選ばれたということは、ただ神の憐れみによってだけ、一方的な恵みのゆえに選ばれたということであって、その意味では、私たちすべての者がイスラエルの立場に立ちうるのです。主イエスは、その贖罪の業を通して、主を信じるすべての者に、(新しい)イスラエルとなる道を備えてくださいました。
 マリアの讃歌は、正に私たちすべての者の救いを讃え、感謝する歌に他なりません。

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参考:
ルカによる福音書1章47〜55節(新共同訳)
わたしの魂は主をあがめ、/私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう。
力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから、その御名は尊く、
その憐みは代々限りなく、/主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、/思いあがる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
餓えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、/憐みをお忘れになりません。
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。
マリアは、三か月ほどエリザベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

(「牟礼通信」2008年7月号より)

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  ■ 「Credo」について  川村輝典 ■

 ラインベルガーのミサ曲は、他のミサ曲と同様、ミサ通常文と言われるものに基づいて作曲されており, Kyrie, Gloria, Credo, Sanctus,Benedictus, Agnus Deiの6曲から成っています。
 第三番目に歌われるCredo、日本語でもクレドという名で親しまれているこの曲は、有名な使徒信条と共に、キリスト教会の一番基本的な信仰の内容を言い表している (通常基本信条また最近の用語では世界信条に属する)ニカイア信条によっています。
英語のin-cred-ible (信じられない)という語の語幹の部分のcred- は、このラテン語のcredoから来たものです。

 ところでこのニカイア信条は、高校の世界史で習う、A.D. 325年に開催されたニカイア公会議の時に制定されたものと言われますが、その原語はギリシャ語です。しかも、その最初の語は「わたしは信ずる」ではなく、「わたしたちは信ずる」というように、複数になっています。
 ミサ曲は、ご承知のようにローマ・カトリック教会(西方教会)の典礼に基づいたものですから、当然ラテン語で歌われますが、その場合複数形のcredimus ではなく単数のcredoが用いられているのは、この動詞がそのまま名詞として定着しているからであると思われます。
しかし ニカイア信条が「わたしたちは信ずる」という語から始まっているということは、非常に重要な意味があります。すなわち、信仰告白というのは単に個人の心情の吐露というようなものとは全く異なり、礼拝のたびごとに唱和される教会の告白のことであり、自分一人ではなく、兄弟姉妹たちと共に一つの信仰を言い表すことであり、使徒たちの時代から現代に至るまで、代々の教会が 告白して来た信仰をしっかりと受け入れ、今この時点において自分たちの口で告白し、次の世代に継承するという役割を持っています。

 ニカイア信条で一番重要な表現は、ホモウーシオス(同質の)という語であることは、ご承知の通りです。ラテン語のホモは人間を表しますが、ギリシャ語では「同じ」という意味です。つまり、本質を同じくするというのがこの語の本来の意味です。先に掲げたラテン語本文ではconsubstantialem と訳されています。そしてこれはキリストの性質について言われているのですから、神の独り子イエス・キリストは、父なる神と本質を等しくされる方である、ということになり、キリスト教で言う神とは、イエス・キリストという方において私たちに出会ってくださる神に他ならない、ということを意味します。
 もう一つ大事な箇所は聖霊に関する部分で、「父と子から出た」qui ex patre filioque と言い表されています。また、その聖霊は「父と子とともに(同時に)礼拝され崇められ」qui cum patre et filio simul adoratur et conglorificaturと言われ、単に神の働きなのではなく礼拝の対象であることが、はっきり主張されています。

 キリスト教の信仰を語る場合、以上のことは一番中心的なことであり、これをただ音だけ真似するのではなく、深くその信仰に思いを寄せつつ歌って下さるならば、必ず聞く人たちの心を打つと思います。

(「牟礼通信」2007年7月号より)

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  ■ニカイア(ニケア)信条■

Credo in unum Deum 私達は、唯一の神を信じます
Patrem omnipotentem 全能の父
factorem coeli et terrae天と地の造り主
visibilium omnium見えるすべてのもの
et invisibilium,そして見えないもの、
et in unum Dominum唯一の主
Jesum Christum イエス・キリスト
filium Dei unigenitum神の独り子
et ex patre natum父より生まれる
ante omnia saecula、すべての時に先立って、
Deum de Deo,神の神、
lumen de lumine, 光りよりの光、
Deum verum de Deo vero. 真の神よりの真の神。
Genitum non factum, 造られずに生まれ、
consubstantialem patri父と同質であり
per quem omnia facta sunt,すべてのものはこの方によって造られた
qui propter nos homines わたしたち人間のため
et propter nostram salutem わたしたちの救いのために
descendit de coelis.天より降り、
Et incarnatus est肉体をとる
ex Maria virgine, おとめマリアにより、
et homo factus est, 人となり、
crucifixus etiam pro nobis:我らのために、
sub Pontio Pilato, ポンティオ・ピラトのもとで、
pasus et sepultus est.苦しみを受け、葬られた
Et resurrexit tertia die三日めによみがえり
secundum scripturas,聖書に従って
et ascendit in coelum, 天に昇られ、
sedet ad dexteram patris 父の右に座し
et iterum venturus est cum gloria栄光をもって再びこられます
judicare vivos et mortuos 生きている者と死んだ者を裁く為に
cujus regni non erit finis その御国は終ることがありません。
et in spiritum sanctum Dominum そして主である聖霊
et vivificantem命をあたえる
qui ex patre filioque procedit父と子から出た聖霊は
qui cum patre et filio父と子とともに
simul adoratur et conglorificatur同時に礼拝されあがめられ
qui locutus est per prophetas.預言者を通して語ってこられました。
Et unum sanctam catholicamそして唯一の聖なる公同の
et apostolicam ecclesiam使徒的教会を又
confiteor unum baptisma 唯一の洗礼を告白します
in remisionem pecatorum 罪のゆるしの為の
et expectoそして待ち望みます
resurrectionem mortuorum.死人のよみがえりを。
Et vitam ventri saeculi、そして来るべき世の命を
amen. アーメン。

            (川村悦子)
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  ■蝋燭と祈り■

 東西ドイツがまだ分断されていた1984年夏、ゲッティンゲンのステファヌス教会が兄弟教会として交流していたケムニッツ(当時カール・マルクスシュタットと改名させられていた)の教会を訪問すべく、3日間の滞在許可をやっと手にして東独入した主人と私は、ライプツィッヒ駅で夜明かしをする羽目になってしまいました。国境で思わぬ時間をとってしまい、夜ライプツィッヒに着いた私達は、許可なしにホテルに泊まることなど当時の状況としては論外でしたので、明朝の始発列車までの数時間を駅で過ごす以外に方法はなかったのです。

 12時ごろまでカーキ色の軍服のソ連兵で溢れかえっていた駅も、彼等が何処かに出発してしまうと、レストランも閉まり駅員もいなくなり、巨大な薄暗い駅には私達だけとなってしまいました。寒くてベンチにじっとしていられず、1番線から23番線まで、また地下から2階までくまなく何度も歩き回りました。そのせいで、この夏全く華やかに変身し、大勢の人々で賑わう駅を久しぶりに訪れても、何処に何があるか解るような気がしました。
 貴重な3日間のうちの1日を無駄にしてしまい、やっとたどり着いたホテル(東独政府の経営)では、なぜ昨夜来なかったのかと厳しく問い質されました。外国人が民間人の家に泊まることを禁じていたからです。それでもマギリウス牧師に連絡すると、奥様が迎えに来て下さり、お宅を訪問し、夕食をご馳走になり、祈祷会に出席することができ、教会の方々とお話をすることができました。後でマギリウス牧師に伺うと、その集会の中にスパイがいたこと、目に見える迫害はないとしても、牧師の子供達は学校での成績を低く評価され、就職などで不利になることが多いとのことでした。生活も西独の牧師とは比べ物にならないほど質素なものでした。

 その後一、二度手紙のやり取りはあったものの、東側との交流は困難でマギリウス牧師達の消息は解らなくなってしまいました。
 この夏(=1999年)15年ぶりにバッハの聖地ライプツィッヒを訪れる機会に恵まれ、聖トマス教会に行く前に、バッハも何度か演奏をしたという聖ニコライ教会をまず訪れました。
 礼拝堂に入ったとたん、とても爽やかな高貴なものに囲まれた気分にさせられました。礼拝堂に金銀の飾りはなく、床も天井も白とうすいグリーン、柱は棕櫚の木のイメージで白、葉の部分は床と同じ薄緑、ベンチも白という大変簡素で清楚な礼拝堂に座り、窓からさす光の中で教会のパンフレットを読んでいた私達は、懐かしいマギリウス牧師が、それを書いた方であることを知り、大変驚きました。しかもそれを読んでいくうちに、この教会が10年前、東西を隔てていた壁の崩壊に、ゲバントハウスの指揮者クルト・マズア教授達と共に、深く係わっていたことを知ったのです。静かな祈りのうちに始まった動きがやがて大きな流れとなり、何万人もの人々を動かし、しかも一人の逮捕者もなく、また血を流すことなく、運命の1989年10月9日を迎えた経緯が淡々と書かれていました。

 以下は、マギリウス牧師とフューラー牧師によって書かれたパンフレットから知りえた事柄です。

 80年代の初め、若者達によって11月に10日間、平和の為の祈りの集会が始められ、それはしだいに毎週月曜日、5時からの「平和の祈り」として定期的に行われるようになりました。多くの人々が加わるようになり、また東ドイツからの出国を申請する市民の数が増えてくると、集会に特別の圧力が加えられるようになり、教会の外(庭)での集会は警察によって排除されるようになり、外側は包囲されるようになっていったのです。
 1989年5月8日以後、ニコライ教会への道は警察によって封鎖され、ライプツィッヒへの幹線道路も「平和の祈り」の間は通行が禁止されました。東ドイツ政府は「平和の祈り」を中止させようと圧力を強め、逮捕者も多く出ました。しかし教会の2千の座席でも足りないほどに参加者が増えていきました。10月7日、東ドイツ建国40周年の日には、無防備、無抵抗の多くの人が逮捕され、数百人がマーククレーベルの馬小屋に監禁されました。

 そして10月9日の「平和の祈り」の日、千人のSED(ドイツ社会主義統一党)と多くのシュタージ(国家秘密警察)が、ニコライ教会へ行くように指示されました。教会の中庭は、2時ごろには彼等によって埋めつくされていました。彼等はいつも「平和の祈り」の中に入り込んでいたのです。しかしそれによって、彼等は今まで聴くことのなかったイエス・キリストの福音を聴かされていたのも事実でした。

 教会の中で「平和の祈り」は静寂と集中のうちに行われ、やがて2千を超える人々が外に出たとき、数千の手に手にローソクをもった人達に迎えられたのは信じ難く、生涯忘れることの出来ない光景だった、とフューラー牧師は書いています。蝋燭の火を消さないようにするには、もう一方の手を添えなければならないので、棍棒や石を持つことは誰にも出来なかったのです。

 「平和の祈り」の人達が、教会内外の数千人の人々、また市の中心部や通りの何十万の人々と、非暴力のうちに共有した経験とはどんなものであったのでしょう。清楚なニコライ教会のたたずまいや、そして15年前にお会いした若く柔和なマギリウス牧師が、その中心に居られたことに思いを馳せるとき、胸を熱くせずにはいられません。東ドイツ政府中央委員会のジンダーマンは死の直前に次のように言い残しました。「我々は全てに対して準備を怠らなかった。そう、蝋燭と祈り以外には」。

 この出来事から数週間後に、東側の独裁と支配が崩壊していく有様は、10年前の出来事とは思えないように、今も鮮明に私達の脳裏に焼き付いています。巨大なものや強いものよりも、穏やかさや平和の力が時には優るということを、私達は思い知らされます。
 「平和の祈り」に於いて、シュタージをも含めて人々が耳を傾けていたのは、イエスの山上の説教でした。
「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。

              (川村悦子  1999年10月23日発行 『牟礼通信』第21号 より)
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